近い未来に笑っていられますように1
2018年4月15日
この日は、これから先の私の人生を大きく変える1日となった。
私はオタクだ。強めのオタクだ。その中でも関ジャニ∞の渋谷すばるを贔屓している。世の中でいう推しだ。
私がオタクになった理由はいずれまた別の機会にでも書くとして。
すばるを好きになったのはMステでジュニア時代に披露した「愛してる愛してない」のときだった。何気なく見ていたテレビで、小さいカラダの美少年が歌っていた。
声質が好みだった。顔が整っていた。細かった。(それは今も変わらない)今でもしっかり覚えているあの日。
その次の日から雑誌などで「渋谷すばる」を調べまくった。関西ジュニアの1人であることを知りそれからというもの、すばるがテレビに出るときは必ずといっていいほどビデオテープに録画した。いまと違ってDVDやHDDがない時代、録画に失敗して死にそうなくらいの悲しみに満ちた日もあった。
私の心をわしづかみにした彼は、関ジャニ∞としてデビューすることになり、旗をもって会見をした。
ジュニア時代から共に頑張ってきた村上横山錦戸をはじめ、計8人で関西ジュニアからデビューをもぎ取った彼らはやる気にみち溢れ、そんな彼らを応援しない理由はないと思うほどに私のオタク精神に火がついた。
しかしすばるにも、暗黒時代はあった。ジュニアのころ、東のタッキー西のすばるとして人気を風靡した彼だが、デビューの3年くらい前、テレビはおろか雑誌などの露出が一切無くなった。私はもしかしたらジャニーズを辞めたのではないかと心を痛めた。今とは違いインターネットの普及もなかった時代。一体どうなっているのか待つしかなかった。
そしてすばるはまた戻ってきたが、右手の甲にタトゥーが。少クラで渋谷すばる&FiVe(ヤバイくらいのかっこよさだった)として披露した「prey」でギターを弾く彼の右手には手袋のようなものがついていた。(このバンドはのちにすばるのジャニーズ音楽人生を大きく左右するバンドとなる)
いまではキレイに消えているが、彼なりの未来への約束だったのだと思う。歌詞にもあるように「刻んだ右手に祈りを」。絶対にデビューして、いままでの自分を越える。だけど辛かったときを忘れちゃいけない。そんな想いがあったのではないだろうか。
こんなイチオタクが簡単に言えるほどのことではなかったはずだ。若い頃に親元を離れ遠い東京で過ごすということは、並大抵なことではない。大人になってから親元を離れた私でさえ寂しいと毎晩思ったのだから。
そうしてまた大阪に戻りみんなと頑張っていくうちに、希望が生まれ奇跡的な8人が集まり関ジャニ8(このころはまだ8表示)が誕生した。
この8人が出会えたのは本当に奇跡だ。奇跡と言う名の運命だ。
しかし錦戸と内がNEWSとしてデビューが決まり、雲行きが怪しくなった彼らは社長に直談判したらしい。
2004年8月25日 関西限定デビュー
9月22日 全国デビュー
そうしてなんとかもぎ取ったデビュー。ジャニーズでは異例の地味なデビューだった。しかも演歌(笑)
それでもデビューしてからは、私は夢中だった。最初のころはSMAPと掛け持ちだったがいつの間にかSMAPのことなどどうでも良くなるほど、関ジャニ∞にのめり込んでいった。
そして2004年11月。東京フォーラム
私が初めて行った関ジャニのコンサートだった。初めてのコンサートが遠征という田舎娘にはハードルが高すぎて飛べないほどのハードルをなんとか飛び越え(しかも一人ww)2階席から野鳥の会をしながら泣いたという気持ち悪いオタク丸出しの大人になりかけた大人がそこにはいた。
当時付き合っていた彼氏に内緒で行った東京。初めての東京。地元からバスと汽車を乗り継ぎ、訳もわからずなんとか飛行機に乗り空を飛んだあの日は絶対に忘れない。
今でこそ遠征なんぞ当たり前の世の中だが、昔は違った。ましてや北海道から東京へアイドル見たさに飛ぶ人達はそこまで多くはなかったはずだ。
そしてその遠征があまりにも印象深くてアイドルに会うという現実離れした行動はエスカレートしていくことになる。
次の月の12月。私は念願だった松竹座のコンサートへ行った。(また1人www)初の大阪。
あの狭い空間でとにかくすばるを見まくった。内容はDVDになっているので省略するがとにかく近くて最高だった。
しかし、皆さんもご存知のとおり錦戸と内のあの事件で、内が脱退することになり7人で活動していくこととなる。
そして2006年9月。待望の北海道公演。
そう、私はこれが関ジャニの伝説のコンサートだと思っている。
地元公演ということもあり、ホーム感むきだしで真駒内へ乗り込んだww
とても楽しかった。きっとこの日があったから私はファンでいられたのだと思う。
もちろん初遠征でも胸が震えこの関西臭どっぷりな8人はこの先の私の人生で最も応援していける人達だと確信はしたが、やはり地元公演は違った。
そう、それはいわゆる追っかけだ。キレイな言葉で言えば追っかけだが、実際は地方ヤラ。この頃はまだそうでもなくて、空港で見たいと思うくらいだったが、それもまたエスカレートしていくことになる。
そうして47都道府県ツアーがはじまり、オタク友達が徐々に出来はじめた。
そしてついに追っかけの気持ちが抑えきれなくなりはじめる。そうだ、頭のおかしいオタクへと変貌を遂げはじめたのがこの頃だ。
2へ続く